濵ちゃんの足跡

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5.ディジタル2号機での挽回

93/4。このときに、私は携帯電話の事業部門に加わった。今までの話は、すべて、LSI設計部隊の長として開発に参画していて見聞したものである。これからは、それこそ内部の話そのもの。

その日から半年戻って、まだ、携帯電話事業サイドに加わるかどうかほんの欠片も意識していないとき。今は立派な管理者になっている某君2名。毎週、自席に呼んで、次の携帯電話をどういうアーキテクチャで作るか議論した。大きな会議机に白い紙を全面に張り込んで、これに議論しながら、お互いのアイデアを書き込んでいった。彼ら二人は次期種の開発にアサインされているが実質的に面倒を見る者がいない。仕方がないから私が始めた。このときの議論が非常に良かった。

私は、このとき、E社のLSI技術を使うことを考えていた。もう一つは、待ち受け時には32kHzのRTC(リアルタイムクロック)でCPUを動かす方式。従来は12.6MHzのTCXOを源発振として、分周して3.2MHzで動かしていた。これを32kHzにすればそれだけでCPUの消費電流は1/100になる。但し、TCXOのオンオフ、S/Wタイマーやクロックの乗せ替えという新たな技術課題を伴う。私たちはこれに挑戦した。

このとき思いがけずE社に強い味方が現れた。K氏である。私の見通したとおり、E社のLSIは低電圧、低電流化が進んでおり、低消費電力という観点では世界一の実力を持っていた。さすがに時計用の半導体技術で長年培われてきただけのことはある。しかしながら、ここでも障害があらわれた。かってE社との半導体の取引きはいくらかはあったが、ほとんどE社に利益をもたらしていない。当然、E社内では全面的に否定された。もうD社とはつき合うべきではないと。これを説得したのがK氏である。私はやるなら最新プロセスを適用すべきだと主張した。ところがE社では、まだ基本セルの設計さえできていないという。CADのツールも未整備だと。それでも私は私の主張を押し通した。これに共鳴したK氏は社内説得を徹底的に行った。がんばりに頑張った。おそらく当時としてはE社の中では孤立無援、四面楚歌の中での説得ではなかったかと思う。結果的にはこれが功を奏して、待ち受け電流4mA以下、携帯電話のスタンバイタイムで200時間以上、他社比較2倍以上という当時としては画期的で圧倒的な差別化の達成であった。

また、この機種では3VのHPAの開発にも挑戦した。当時のK研が猛烈に頑張った。これも当時の常識では高電圧でなければHPAの効率は上がらない。無理だというのが大半の意見であった。各社ともまだ6Vで駆動していた。仕方がないので2つのケースを想定して並行して開発を進めた。セット開発部隊としてはたいへんなことであったと思う。ぎりぎりになってなんとか目標効率に目処が立ち、3VのHPAが実現できた。これは実はたいへんなことで、業界初、世界初の全3V携帯電話が誕生したのである。

もうひとつ。この機種では忘れることのできないことがある。お客様にほんとうに助けられた。例の音声コーデック問題である。私は、着任早々、お客様に出かけた。大問題の後だけに、それこそ白装束を身にまとい、いつでも切腹する覚悟で臨んだ。新しい機種の提案書を説明しようとすると、Mさんが「D社さん、私どもは次の機種開発を頼みましたかね。音声コーデックもできないメーカーは携帯電話メーカーとしての資格がないと上司がいうんですよ。さあ、こまりましたねえ。」と言われる。「はっきり言って、ムーバーメーカーはP社とN社とF社。Mo社とD社は、もうテーブルの外、それ以外のメーカーは完全に枠外ですよ。」と図を書きながら説明される。もう真っ青。

それでもめげず、何回もM氏の下に通う。幸いなことにM氏はD社に理解があった。その昔のアナログ機の失敗と成功を見ている。D社はきっとなにかをやってくれるだろうと。そのうちに、M氏。「音声コーデックについてはどう考えています?」私は正直に「H/W(DSP)はどんなに頑張っても間に合いません。T社のものを使わせて頂きたい。但しF/Wは何としても自製します。これでなんとかなりませんか。」M氏「周波数の有効活用を図るためにハーフレートコーデックを採用します。これを絶対に開発すると約束できますか。1年半後です。H/Wは汎用品でも結構です。そろそろH/Wまで用意する必要はなくなってきました。汎用品でいいDSPが出つつありますからね。ですから、来年の春には、何が何でも、つま先立ってでもフルレートコーデック搭載の機種(V123X)を開発し、その秋にはハーフレートコーデック搭載機(V133X)を開発して下さい。これができなければ、D社さん、再参入は、ちょっと手だてがありません。」

私はこれを文書にして提出した。M氏はこれを問題の上司に説明しD社再参入の道を拓くという。M氏に何回も相談し何回も見て貰ったが、なかなかいい表現にならない。私のあまりにも稚拙な文書に、とうとう最後には「こういうふうに書いて下さい。」と直接朱書きして貰った。後にも先にもお客様に提出文書を朱書きして貰ったのは私くらいかもしれない。ここからに開発を頑張った。1年半に亘る音声コーデック開発はほんとうに地獄をみる開発となった。

T社も真剣に対応してくれた。なぜT社か。これも変な話だが、当時のT社の通信用DSPの担当部長の名前が珍しい名字で、それが私の郷里に多いことから始まる。自社製のDSP開発では間に合わない。かと言って問題を起こしたA社のDSPは使えない。もう一つの候補はMo社だが、ここに接点がない。まずはそのT社の部長に電話して会うことにした。早速に話を切りだしてみるとT社としてもなんとか携帯電話メーカーに参入したいと。前述の如く主要メーカーは全部それぞれの自製DSPを使っており、切り込む方法がなかった。そこに私からの話。話はトントン拍子に進んだ。ちなみに、P社、N社、F社は今でも自製のDSPを使用している。そうそう、そのT社の部長は東京生まれだが、おじいさんが私の郷里の出身者であるという。人のつながりの大事さが直接会った人達だけではなく、世代を越えてまで影響があることをこんなに実感したことはない。

幸いなことにフルレートコーデック搭載のディジタル2号機(V123X)の開発は成功した。みんなのがんばりで世界初の全3V化も他社比2倍の待ち受け時間も実現できた。このとき携帯電話の幅はあの超ヒット製品アナログ2号機に合わせたのは当然としても、高さを123mmにしたのは、開発コードV123Xにちなんだもの。厳しい開発作業の中でも遊び心(ゆとり)は忘れていなかった。これだけの差別化製品だから売れに売れた。半年で約80万台。ミリオンセラーに匹敵した。ここで、また、生産ラインの増強問題が起こった。またまた月産10万台という3倍増のライン作りである。

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