濵ちゃんの足跡

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8.GSMの立ち上げ

次の課題は瀕死のGSM事業の建直し策だった。GSMの開発は膨大な仕様書の理解から始まったという。これをブレッドボード化し、試作して実動を確かめた。そして作ったGSM1号機がM1X。ちょうどそのとき出てきたのがSe社のゴールドチップ。これを採用した。あれほど細かく確認した基本回路は自らLSI化する時間がなかった。というよりは、GSMの仕様化は完全に欧州勢ペースで進められ、日本勢には開発のアドバンテージは全くなかった。非常に良くできているとの評判であったゴールドチップも実際にはバグだらけで量産製品にはならなかった。

そんな中でGSM2号機の開発が急がれた。今度のチップセットはA社のもの。このチップセットも非常に優れたものであった。これにD社独自のノウハウをDSPにF/Wとして組み込んだ。ところがこれが裏目に出た。A社のF/WとD社のF/Wがなかなか融合しない。技術的な質問をバンバン投げかけても人気があるチップだけに、A社はなかなか対応してくれない。よくある話だが、いいチップほどたくさんのクライアントがついて、その多くのクライアントがどんどん改良仕様を勝手に要求するものだから、どんどん糞詰まりになり、改良が進まないものだから、結局、工程が遅れて、市場投入チャンスを失ってしまうという非常に悪い循環に陥った。月産2万台を生産するのがやっとの実力。販売も量販店に並べて細々と売るのが精一杯であった。PDCが転けているからGSMのLSI開発まで手が回らないという事情もあった。

そこで私は考えた。もう一度原点に戻るべきと。GSMの最大の問題は、半導体メーカーが作ったチップセットを使っているという点であった。これを全部やめることにした。もう一度、LSIもS/WもF/W完全に自製してブラックボックスをなくすことにした。私は、まず、基本アーキテクチャの検討を行った。基本アーキテクチャをPDCと同じにした。そして材料費を見積もった。私はこの段階で、当時1台あたり1,100~1,200フランしている材料費が650フランで実現可能と予測し、これを目標とした。(結果的には絶対不可能と思われた700フランをきることができた。)この基本検討書をもって仏工場にでかけ、まったくはじめて会う仏技術者たちを懸命に口説いた。ほとんどの技術者が半信半疑であったが、もう工場を閉鎖するか、もう一度頑張ってみるかの瀬戸際に立たされていた状況では後者の選択しかなかった。

開発は、要素技術開発部隊と携帯電話の製品(セット)の開発部隊に分けた。とくに要素技術開発には私の手許の精鋭の技術者を貼り付け、私自身が直接旗をふった。携帯電話製品開発部隊はM1XとM2Xを開発したメンバーが引き続き担当した。8チャンネルのベースバンドLSIは半導体事業部門にも協力して貰って完全に自製した。フルレート、ハーフレート、エンハンスドフルレートの音声コーデックも全部開発した。もちろん、LSIは最新半導体プロセスを適用し、DSPもT社の最新DSPを採用した。シーケンスS/WやマンマシンインターフェイスS/Wも全部仏人技術者で自製した。もう、ブラックボックスはどこにもなかった。

しかしながら、GSM800/1800MHz対応のデュアルモード用アナログLSIの開発は失敗した。どうしても発振問題が片づかない。これについては、あきらめきれない私に対して、上司が決断し、フランスのW社にモジュール開発を依頼し、とにもかくにも開発はできた。

この一連の開発で、仏技術者と本邦の技術者がドキュメントと会話とも英語で開発を進めたのも、また、違った意味でいい効果があった。開発は結局約2年かかった。

シングル機も完成した。デュアル機も完成した。3つの音声コーデックも完成した。とくハーフレートコーデックとデュアル機の完成は、欧州キャリアがサービスインする前の完成で、彼らを驚かせるのに十分なものであった。No社、Er社に次いで、世界で3番目に全ラインナップを完成させてしまった。この段階で、欧州キャリアの印象がガラリと変わった。「D社、なかなかやるじゃないか。」

欧州の1年間の受注はCebitで決まると言っても過言ではない。毎年2月~3月にかけての約1週間開催されるドイツのハノーバー市で開催される情報機器と通信機器の世界最大のメッセである。このGSM/M3機の最初の出展は、ちょうど超薄型PCが出たときで、D社としての総合展示場であった。ところが、この展示方法が大失敗。このCebitは世界最大のメッセというだけあって、展示会場が全部で約30会場ある。体育館の数倍ある展示場が30個もあると想像すればちょうどよい。総合展示場はだいたい1~10号館である。それでは携帯電話などが展示されているのはというと26~28号館。No社もEr社もMo社も主要携帯電話メーカーは全部26号館に集まっている。だから、携帯電話に興味のある人たちはここに集中していて、総合展示館にはほとんど来ない。これを大反省して、次年度から26号館に携帯電話専用のブースを設定した。大正解。

GSM/M3X機は150万台規模売れた。これをきっかけとして、GSMのビジネスが反転し始めた。更に市場要求を早く取り込み、具現化するために現地化を加速することになった。8人の技術者を仏工場に送り込み、現地技術者約60名と一体になり、次機種GSM/M4Xの開発が始まった。今度は、要素技術も製品化も全部仏サイドでの開発。これはこれでたいへんな開発であったが、現地採用の技術者を増強し、これを乗り切った。一旦、軌道に乗り始めた事業は、モチベーションが高く、いろんな問題は起こりつつも、これらをクリアできた。このGSM/M4Xの市場での評判はよく、月産100万台レベルの受注に繋がり、新工場の建設がこれに拍車をかけた。これで、ディジタル機(PDC)に引き続いて、GSMでも、事業そのものにスレッショルドレベルがあることを再び実感し、事業の面白さを体感できた。これだけの開発だから非常に多くの人たちが連携したが、当初考えた戦略が正しかったことが証明でき、本当にうれしく思っている。

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