濵ちゃんの足跡

前のページ 次のページ 目次へ戻る

15.GSMバブル

99年~00年はD社携帯電話事業の大きな変局点になった。私はiモード初号機の開発を終え、3G機の開発を担当していた。これは半分横目でみていた話。

GSMもいよいよパケット時代の機運。日本でiモードの成功を目の当たりにしているD社は、GSMのパケットは絶対ヒットすると確信していた。「GPRS」に集中した。全機種をGPRS搭載の仕様にしている。成功すれば、一気にNo社に追いつけると思った。

これに加えて、GPS市場の成長に拍車が掛かった。いよいよ年間4億台の需要だという。欧州オペレータが猛烈に動いた。携帯電話用の部品がない。No社はどこそこの部品メーカーの何ラインを買い占めた。早く枠取りしないと部品が入手できなくなる。信じられないような話が飛びまくった。オペレータも我先に携帯電話の注文をし始めた。このままだったら、自分のところにGSM携帯電話が回ってこないと。

99/2のCebitの会場。D社もGSMとしては過去最大のブースを用意して、オペレータを呼び込んだ。バンバン注文が入る。オペレータがその場で内示をしていく。僅か1週間に合計1000万台の注文書を握ってしまった。私も含めて、全員、狙いが的中したと思った。とにかく部品を確保しなければならない。この調子なら、まだまだ注文は入るはず。切れのよい100万台/月を目指すことにして、1200万台/年の部品を発注した。このときのD社の年間最大GSM生産能力は400万台。工場も組み立てラインも3倍に増設しないと間に合わない。

早速に社内稟議を通して、工場建設が始まった。従来、6000m2の工場が1棟しかなかったところに、8000m2の工場を2棟追加することにした。敷地だけは十分にあった。これに、雇用促進のためという名目で地元市が3000m2の工場を建設して無償貸与してくれた。欧州の事業責任者の鼻息は荒かった。ブランド名も一新した。一気に「時の人」になった。何はともあれ、もう走りに走った。

おっとっと、この大事な局面で、欧州の事業責任者が交代となった。どこにでもあることだが、好調時にはだれでも上を狙う。表向きの理由は、家族の問題ということで帰国。できる人はもっと大きな分野でというのは常識だが、果たして、この時期が適当であったかどうか。国内に戻り、海外事業全体が責任対象となった。後任はスマートな某氏。このギャンブル的な規模拡大に対応できるかどうか、心配した。

その心配が現実のものとなった。00年の秋口になって、様相が変わってきた。まだ、2棟目が稼動しだしたばかりというのに。どうもオペレータが多重発注していて、そのままの合計生産数にはならないのではと。後で聞くと、早い部品メーカーは春先の頃から、おかしいと気づいたらしい。No社がブレーキを踏みはじめた。続いて、その他の大手も生産調整に入った。それなのにD社だけは夏を過ぎて秋口に入っても突っ走っている。国内に戻った責任者は手綱を緩めない。飛んで行って自分の眼で確かめるべきという周囲の意見にも耳を貸さない。後任の欧州の責任者がやりにくくなるから、任せておいて大丈夫と。何をどう思ったのか。後任者がカリスマの前任者に逆らうはずもない。本当にD社は大丈夫か。後に分かったことだが、部品メーカーの中では、そうささやかれていたらしい。

そこに大問題が起こった。1200万台分の部品を発注しているのに、ひとつの部品が揃わない。シリアルFLASHメモリーである。ありとあらゆるシリアルFLASHをかき集めたが720万台分でストップした。また、あまりにもいろんなメモリーに対応しようとしてプリント基板の種類が26種類にもなった。工場は混乱を極め、とうとう明日出荷できる商品が何かまったく分からなくなってしまった。いつ何が納入できるか分からないメーカー、これ幸いにオペレータがキャンセルを始めた。注文書を持っていながら、納入できないのは、D社の理由。これではキャンセルされても文句は言えない。

結局、あまりにも気づくのが遅すぎた。正式発注しない限り部品が確保できない状況であったとはいえ、1200万個もの大量の部品発注を途中で止めることができなかった。大量注文が仇になった。結局、GSMバブルにまともに乗っかって、480万台分もの部品を残してしまった。まだ、3棟目は建設がはじまったばかりである。

前のページ 次のページ 目次へ戻る