濵ちゃんの足跡

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137.「富士山頂レーダ」(1)

この話は`59(昭和34)年の死者行方不明者が5000人にも及ぶ伊勢湾台風の大被害が発端です。当時は東京気象台に直径3mのレーダがありましたが、これでは半径200kmくらいの気象情報しか得ることができなくて、伊勢湾台風はもとより、当時の台風の進路や速さは点で採集した気圧と風の変化で等圧線を書いて推測するしかなかったそうです。

これに対応するためには、日本で一番高いところ、すなわち富士山に強力な気象レーダを置くしかない、そうすれば600km超をみることができるようになるという途方もないアイデアが生まれ、2年間に亙る予算折衝と平行して、工事の可能性についての基本的な検討が行われました。

その段階での問題は、1年間に2ヶ月くらいしか確保できない工事期間で果たして完成できるかどうかということ、富士山頂のレーダをリモートコントロールするための無線回線が富士山頂と東京の気象庁間で直線の見通しが得られるかどうかと、富士山頂目までの荷揚げの仕方でした。

天気が悪いと雷が足元を走る、地面は永久凍土で簡単には掘ることさえできない、作業者は高山病でバタバタと倒れる、頭がボーとして簡単な足し算や引き算さえもままならない、工事はたいへんな困難を伴うことが予想されました。直線見通しの確認のために`63(昭和38)年の真冬に、登山経験のない技術者7人が決死の登山を行って、8日間のブリザードの中で確認作業を行いました。

荷揚げについては、当初、馬でやろうとしますが、気圧が低くて2700m以上は馬では無理、強力(ごうりき)が担ぎ上げるしかありませんが、それにしても荷物が多すぎます。そこで代替手段としてブルドーザが検討されます。気圧が下がっても燃料消費が最適になるような改造などを行って、とうとう頂上までブルドーザで荷揚げができるようになりました。

それでも工事が少しずつ進んで、そして最大の難問、レドームの運搬と設置になります。

レドームは風速100m/秒の風圧(約350kg/1m□)に耐えられる特殊な構造で、とことん軽量化しても600kgあります。当時のヘリコプターの最大吊下げ重量は公称480kgですから計算上は運べません。分解して運ぶこともできず暗礁に乗り上げたかに見えますが、そこで元特攻隊の上官であった操縦士が手を上げます。国家のために散っていった若者を見送り、そして生き残った自分が国家のためにこれをやらなくてどうするという男の気概だけだったそうです。ヘリコプターの内装を全部はがし、燃料タンクも外し、徹底的に機体を軽くして、`64(昭和39)8月15日についに決行されます。奇しくもその日は終戦記念日。人間だけの力とは思えない奇跡的な力も働いて、運搬と設置が成功します。(つづく)

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